タオ・老子・良寛

膵臓がんと言われて手術をした当時から、私の死生観の幹となったのが老子であり、老子を現代語訳にした加島祥造の著作でした

 


タオ―老子 (ちくま文庫)タオ―老子 (ちくま文庫)
道(タオ)の満ちた谷にいる神は、けっして死なないのさ。それはすべてを産み出す神秘な女体と言えるものなんだ-。2500年の時空を超えて、「老子」全81章の全訳創造詩。

 

     無為とは、なにもしないことじゃない

    誰も、みんな、
    産んだり、養ったり、作ったりするさ、
    しかし、
    タオにつながる人は
    それを自分のものだと主張しない。
    熱心に働いても
    その結果を自分のしたことと自慢しない。
    頭に立って人々をリードしても、
    けっして人を支配しようとはしない。
    頭であれこれ作為しないこと、
    タオに生かされているのだと知ること、
    それが無為ということだよ。
    なぜって、こういうタオの働きに任せたときこそ、
    ライフ・エナジーがいちばん良く流れるんだ。
    これがタオという道の不思議な神秘の
    パワーなんだ。
        (老子道徳経第十章)

 


伊那谷の老子 (朝日文庫)伊那谷の老子 (朝日文庫)
がんの王様、膵臓がんになったときに私を救ってくれたのは、良寛や老子であった。

 

【私のブログ記事】加島祥造のタオ-老子

中野孝次の碁仇で、英文学者・詩人の加島には『トム・ソーヤの冒険』などの翻訳があり、こちらが有名だが、近年は「老子」の現代詩訳を出版してい る。加島祥造の『伊那谷の老子 (朝日文庫) 』には、彼がいかにして老子の現代詩約をすることになったがが紹介されている。その中で、晩年の寺田寅彦の「電車の中で老子 に出会った話」の小文を引用して、寅彦が日本橋の丸善で老子のドイツ語訳を買い求め、電車の中で読み始めたが、これまで難解だと思っていた老子が、「まる で背広にオーバー姿で電車の中でひょつくり隣合って独逸語で話しかけられたよう」に、すとんと理解できたというのである。

そして加島自身も、老子の英語訳に出会っていっぺんでその虜となり、触発されて老子道徳経を現代詩に訳した『タオ―老子 (ちくま文庫) 』を出版することになってしまった。

この『タオ-老子』の現代詩がなんともいいのである。私なんぞは、漢詩は高校で受験のために仕方なく勉強したが、正直いって難解で退屈だった。孔 子・孟子までは付き合ったが内容はほとんど記憶にないし、まして老子となると義理で付き合った覚えもない。その老子が、加島の現代詩に姿を変えると、本当 にストンと胸に落ちるから痛快だ。 


老子までの道―六十歳からの自己発見 (朝日文庫)老子までの道―六十歳からの自己発見 (朝日文庫)
英米文学から老子へ、そして港町・横浜から信州・伊那谷へと生活の場を移すなか湧き上がってきた画作と詩への情熱―60歳を過ぎ、心の声を聞きながら自然の流れにしたがって生きた日々と、そこから見えてきた「命のやすらぎ」に通ずるタオの世界への目醒めを、時にユーモアを交えて綴る。

 

 


『求めない』 加島祥造『求めない』 加島祥造
現代語訳「老子」がベストセラーになっている詩人・アメリカ文学者の加島祥造氏が、長野県伊那谷の自然に住むなかで次から次へと湧き出てきた、すべてが「求めない」で始まる詩約100篇を収録した珠玉の詩集。

 

【私のブログ記事】彼岸花と道元の死生観

そして加島祥造は「求めない」の詩文集の冒頭に、

    あらゆる生物は求めている。

    命全体で求めている。

    一茎の草でもね。でも

    花を咲かせたあとは静かに

    次の変化を待つ。

    そんな草花を少しは見習いたいと、

    そう思うのです。

と書く。そう、命を、生を全力で生きている。ただそれだけのことなのです。次の変化(死)を待つ。ただ、それが来るのを静かに待つ。私もそんな草花を少しは見習いたい。 


道元断章―『正法眼蔵』と現代道元断章―『正法眼蔵』と現代
道元の言葉を現代日本のなかで読むというのは、それだけで何事かである。生きるとは、老いるとは、そして自己とは何か。ここ十五年ほど道元を読み続けてきた著者が、「現代」を考えるために、いま道元読書報告を書く。生誕八百年、道元の言葉が現代日本によみがえる。

【私のブログ記事】道元の「生死」観:『正法眼蔵』がおもしろい

生も死も、全宇宙のすべての要素が相互に関連し、ダイナミックに運動する中での、「私の生であり、死である」というふうに解釈した。ここには仏教の、死んだ後に極楽浄土に生まれ変わるとか、永遠の輪廻転生という考えは見られない。全宇宙の存在が、「今ここに」ある瞬間に、相互に作用し合い、生として現成し、死として現成しているのだ。だから、生が死になるのではなく、全宇宙のダイナミックな働き(全機現)としての生であり死であるからして、生の前後はあるが、前後は裁断しており、死の前後も裁断しているのである。生と死だけに因果関係があるのではない。


受いれる受いれる

受いれるーー すると、運命の流れが変わる

受いれるーーすると優しい気持ちに還る

受いれるーーすると自分の根にある明るさに気づく

悲しみを受いれるとき 苦しみを受いれるとき 「受いれる」ことの本当の価値を知る

想定外の苦難や悲しみが襲ってくることも多いのが人生。まず自分を受いれ、悲しみを受いれ、恐れを受いれ、あらゆる変化を受いれていくと、他者や他者の変化も受いれられ、自由で柔軟な人生を生きることができる。苦しみは消えることはなくても、それ以上大きくはならないーー。そんな「ライフワークとして若い人に伝えたかったメッセージ」を、90歳に近づく加島祥造氏がやさしい言葉で綴る。


バカボンのパパと読む「老子」角川SSC新書 (角川SSC新書)バカボンのパパと読む「老子」角川SSC新書 (角川SSC新書)
今日本はとんでもない問題を数々抱えている。そんななか、老子の「無為自然」の考えがきっと役に立つはず。生きるということは自然の摂理とともにあるということ。そこから始めるしかないのだ。しかし、漢字だらけの老子の文章を読み解くのは難しい。そんなときにあらわれたのが「バカボンのパパ」だった―。とっつきにくい漢文をわかりやすく解説する、「バカボンのパパ語訳」による老子本の登場。 

 

バカをつらぬくのだ! バカボンのパパと読む老子・実践編 (角川SSC新書)バカをつらぬくのだ! バカボンのパパと読む老子・実践編 (角川SSC新書)

バカボンのパパによる老子の超訳を試みた『バカボンのパパと読む「老子」』。今回は、その実践編。老子を学び、いかにその知恵を日々の暮らしに取り入れていくのか? いかに「道(TAO)」とともに生きていくのか? これをバカボンのパパとともに考えていく。老子の原文からくみとれるポイントと、身近に感じられる逸話を交互に積み上げていくスタイルで、いろいろと生きづらい日々を少しでも変えるためのヒントを著者・ドリアン助川がやさしく、そして強く語りかける。

●悪口はゴミ箱に捨てるのだ

●ぶれぶれこそまっすぐなのだ

●折れてくじけて強くなるのだ

●貯めこもうとすれば失うのだ

●敵をつくらないのが本当の無敵なのだ

●選ばれていない時が、選ばれている時なのだ

など。老子八十一章のなかから、いくつかの章をピックアップし、ドリアン助川が老子をやさしく解説し、強く語りかける。 老子の実践の書であり、ドリアン助川が、現代社会に悩むすべての人に贈る応援の書である。

 

【私のブログ記事】

今日の一冊(8)『バカをつらぬくのだ!』

寵愛でも屈辱でも人は狂ったようになる。大きな患いを自分の身のごとく尊ぶからだ。寵愛と屈辱で狂ったようになるとはどういうことか。配下にある者は、寵愛を得てひどくのぼせる。それを失ったときには取り乱す。これが寵愛と屈辱で狂ったようになるということだ。

大きな患いを自分の身のごとく尊ぶとはどういうことか。我々に大きな患いがある理由は、我々が欲に満ちた身を有するからである。そのような身を有しなければ、なんの患いがあろうか。

それゆえに、自分の身を大事にしながら天下を治める者なら、その者にこそ、天下を預けるべきである。自分の身を愛おしみながら天下を治める者なら、その者にこそ天下を引き受けさせるべきである。

ドリアン助川さんの『バカをつらぬくのだ! バカボンのパパと読む老子・実践編』はこのように紹介している。

バカボンのパパと読む「老子」久しぶりに老子に関する本を読んだが、やはり老子はいい。

 バカボンのパパ:これでいいのだ!

がんになった。「それでいいのだ」と受け入れて、「死ぬかもしれない」「それでいいのだ」と受け入れる。受け入れることはあきらめることではなくて、これからは違う人生、違う考え方で生きるということ。それができる人だけが治る可能性があるのだ。

勘違いしちゃいけない。「よし、それじゃ考え方を変えたら治るのならそうしよう」と思ったとしたら、取り違えている。「それでいいのだ」と、なんの見返りもなく受け入れること。期待しないこと。治るかどうかは「成り行き」なのです。

断食座禅の経験から、

    ずっと病気を意識していると病気は治りにくいのです。断食して病気を治すのだという思いでやっていると、なかなか効果は現れません。自分の病気のことを言わなくなったり、考えなくなったとき、からだは変わり始めます。

治りたがる人は、治ることは希なのかもしれない。


ヘタな人生論より良寛の生きかた―不安や迷いを断ち切り、心穏やかに生きるヒント (河出文庫)ヘタな人生論より良寛の生きかた―不安や迷いを断ち切り、心穏やかに生きるヒント (河出文庫)
小さな借宅に住み、ホームレスにも似たボランティア僧として生きながら、良寛は、なぜ後世に名を残すほどの人望があったのか。あの封建制の不自由な時代に「自由な生きかた」を死ぬまで押し通し、どの組織にも所属せず、地位や名誉や金品を貪り求めることなく悠々と、そして人に愛されて生きた良寛のことばに、私たちはいまこそ耳をすませてみたい。 

 

 

 


風の良寛 (文春文庫)風の良寛 (文春文庫)
人は良寛に触れることによって、知らず知らずのうちに自分の生き方を顧みさせられる。そのような良寛の生き方や思想などについて語る。良寛の「人生が楽になる」生き方を提案。

 

 

 

 

 


良寛に生きて死す良寛に生きて死す
良寛に親しんでの喜悦、良寛からの啓示とメッセージ、病や死に自分が直面した際の動揺と安らぎ、そして死後への遺言。清貧の人・中野孝次の生涯をかけた思想の結実。

 

 

 

 

 


手毬 (新潮文庫)手毬 (新潮文庫)
夢にも見るほど憧れて慕う良寛さまに差し上げようと、今日も日がな一日七彩の絹糸で手毬をかがる若き貞心尼。―17才の秋に医者に嫁いで5年、夫の急死で離縁され24才で出家した長岡藩士の娘、貞心が、70才の良寛にめぐり逢ったのは30才の時だった。行商のいなせな佐吉に恋慕をぶつけたくなる貞心のもうひとつの心の安らぎと、師弟の契りを結んだ最晩年の良寛との魂の交歓を描く。

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私はさりげなく、

「お心にかかることはございませんか、御心持ちは如何でしょうか」

と申し上げた。良寛さまは薄目をあけて、真っ直私の目を捕らえ、

「死にとうない」

とつぶやかれた。聞きちがいかと、一瞬目を大きくしたが、その私の表情をごらんになって、うっすらと微笑され、

「死にとうない」

ともっとはっきりいわれた。