生と死を考えるために

人生の終い方 自分と大切な人のためにできること人生の終い方 自分と大切な人のためにできること 2017/5/24

自分の人生がもう長くないとわかったとき、あなたなら何をしますか。誰に何をのこしますか。あるいはのこさないですか。私と一緒に考えてみませんか。

落語家の桂歌丸さんが高座の上からこう呼びかけて始まったNHKスペシャル「人生の終(しま)い方」。20代から高齢世代まで、幅広い年代層に大きな反響を呼んだ同番組が書籍化されました。当事者を通して人生の終い方に迫るという、かつてない番組に「新しい生き方を見いだした」「今を大事にしていきたい」などという声がたくさん届いています。

最初に紹介されるのは、漫画家の水木しげるさん。水木さんは長年、日々の暮らしの中で笑顔の写真を撮り続けてきました。壮絶な戦争体験をした水木さんがのこした幸福のかたちがそこにあります。第2章では、高齢で何度病に倒れてもよみがえり高座で客席をわかせ続ける桂歌丸さんが、なぜ高座で終いたいか、心に秘めた思いを明かします。

続いて、一般の3名の方によるかけがえのない体験が続きます。第3章は定年後すぐに病に倒れた団塊世代の男性です。在宅医のすすめで人生を振り返るセラピーを受けてのち、家族に託したお守りのような手紙とは…。第4章に登場する30代の男性は、幼い子らに「負けない心」をどのようにして伝えのこせたのか。その珠玉の日々とは。第5章は、小さな居酒屋をきりもりし、障害のある娘を育てた90代の肝っ玉母さん。のこされた娘にはお母さんを慕う多くの常連客がいました。

本書では、さらに番組で紹介しきれなかった、「ラジオ深夜便」などを通じて募集した500通ものお便りのなかから貴重なエピソードをご紹介します。

視聴者からは、「死を初めて肯定的に受け止められた」「今から子どもにできるだけ笑った顔を見せたい」「なんとなく生きているのはダメだと思った」「独り身でも誰かに何かをのこせると感じた」ほか、多くの声が届いています。

終活ブームでエンディングノートや葬儀の方法などに関心が高まるなか、本当に最期を間近にしたときに私たちは何をしたいか、できるのか。それよりも元気なうちにどう生きるか、大切なメッセージの込められた本になりました。


「いい人生だった」と言える10の習慣 人生の後半をどう生きるか (青春新書プレイブックス)「いい人生だった」と言える10の習慣 人生の後半をどう生きるか (青春新書プレイブックス) 2017/4/25

最末期の緩和医療に取り組む、若き“看取り医"の死生観。

著者は29歳にして、内科医から全国にまだわずかしかいないという「緩和医療専門医」に転身。

1000人におよぶ“人生の大先輩たち"を看取るなかで学んできたこと、

後悔のない人生を送った人に共通する習慣とは――。

だれにでも訪れる“そのとき"のために考えを深めておきたいテーマを掘り下げた一冊。

 


「平穏死」の真実と準備 (TJMOOK)「平穏死」の真実と準備 (TJMOOK) 2017/4/15

点滴、気管チューブ、導尿バルーンetc.。終末期の患者がさまざまな管を取り付けられることを「スパゲティ症候群」と呼び、

最も不幸で最も苦しい死に方であると言われる一方で、終末期のほとんどの患者がこの状態にあります。

がん患者も心疾患患者も臓器不全患者も、そしてその家族も「終末期は痛くない」という事実を知れば、この状況を回避できます。

「平穏死」を迎えるために知っておきたい真実と準備を初めて実用ムックで解説します。


人は死んだらどこに行くのか (青春新書インテリジェンス)人は死んだらどこに行くのか (青春新書インテリジェンス) 2017/1/20

世界中で宗教が衰えつつある現代だが、誰も逃れることのできない「死」については、私たちはまだ宗教の力を必要としている。

仏教、神道、キリスト教、イスラム教など世界の宗教はその誕生から死をどのように説明し、

そして現代の私たちにどのような救いを与えてくれるのか。

原罪が重要な意味をもっているキリスト教。

来世を現世に続くものとしてとらえているイスラム教。

自らの生にすら執着しないことを解く仏教──。

各宗教の死生観を知ることで、現代社会の根本原理とその病理が見えてくる。


病気は人生の夏休み がん患者を勇気づける80の言葉病気は人生の夏休み がん患者を勇気づける80の言葉 2016/10/27

1等にもビリにも違った価値がある。

3000人以上の患者・家族に希望を与えた、がん哲学外来初の箴言集

病気や苦しいことが起きて、人生八方ふさがりになっても、

ふと空を見上げれば、天は誰にでも開かれています。

人生は相対的なもの。たとえ先頭を走れなくなって、周回遅れになっても、

ある人から見たら先頭を走っているように見えるのです。

遅くなっても、人として品性があればいいじゃないですか。

必死の形相で先頭を走り抜けるのもよいけれど、余裕をもってにこやかに走り続けるのも立派です。

言葉の処方箋で患者や家族に病気に立ち向かう勇気と希望を与え、

海外からも注目される「がん哲学外来」の初の箴言集。


死を乗り越える映画ガイド あなたの死生観が変わる究極の50本死を乗り越える映画ガイド あなたの死生観が変わる究極の50本 2016/9/16

「死が怖くなくなる読書」の続編。

読書だけではなく映画も、死の「おそれ」や死別の「かなしみ」を克服する力をもっていると著者は訴えます。

死があるから生があることに気づかせてくれる映画、死者の視点に立って世界を見ることを教えてくれる映画、など50本の作品をセレクトしました。

作家の顔だけでなく、冠婚葬祭業の代表として多くの人々の「死」と向き合ってきた著者ならではのと深い洞察に満ちた内容となっています。


平穏死という生きかた平穏死という生きかた 2016/9/23

こんなにも安らかで、優しい死があったのか! ?

逝きかたを覚悟してから、本当の人生が始まる

自分の人生が、いつ、どんなかたちで幕を下ろすのかは誰にもわかりませんが、

誰のもとにも死はかならず訪れます。それが生き物としての宿命です。

高齢化社会も待ったなしの今、私たちは「そのとき」のことを真剣に考えなければなりません。

人は、「死」をきちんと自覚し、自分自身の人生に覚悟が定まった時に、

そこから本当に「後悔のない生」を生き始めるのかもしれません。

命と向き合い続けた、看取りの第一人者による幸せな生涯の閉じかの指南書。

1章 「平穏死」を阻む現代医療の真実

2章 死と正面から向かい合う

3章 凛として、老いを生きる

4章 悔いなく逝くための「入舞」を準備する


僧侶が語る死の正体僧侶が語る死の正体 2016/9/28

私たちは死を怖れる。死を避け、先延ばしする。しかし死は誰にでも、必ず訪れる。そして、死を経験した人は、誰もいない。死とは何か。誰も知らず、しかし誰もが怖れる。2500年前、ブッダは死の正体を見破った。その正体とは、何か―

 

 

 


名僧たちは自らの死をどう受け入れたのか (青春新書インテリジェンス)名僧たちは自らの死をどう受け入れたのか (青春新書インテリジェンス) 2016/7/2

内容紹介

親鸞、一休、良寛、西行、空海…悟りを開いた高僧としてではなく、一人の“生身の"人間として、

彼らが人生の最晩年、迷い悩みながら辿り着いた人生の終い方とは。

「不安」な人生の中に「安心」を見いだす生き方のヒント。

著者について

1950年、広島県呉市生まれ。作家。浄土真宗本願寺派僧侶。

拓殖大学卒業後、週刊誌記者などを経て現職に。

保護司、日本空手道「昇空館」館長の顔も持つ。

政治家から仏教まで、幅広いジャンルで人間社会を鋭くとらえた観察眼と切れ味のよい語り口には定評がある。


「平穏死」を受け入れるレッスン: 自分はしてほしくないのに、なぜ親に延命治療をするのですか?「平穏死」を受け入れるレッスン: 自分はしてほしくないのに、なぜ親に延命治療をするのですか? 2016/7/4

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看取りに悩んだら、「命より大切なもの」に目を向けなさい。

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「いつまでも生きていてほしい」

けれども、

「できるだけ楽に逝かせてあげたい」

人生の最終章を迎える人の家族は、誰もがジレンマを抱えています。

そのジレンマに、「平穏死」提唱者であり、60年命と死に向き合ってきた医師が答えます。

別離は悲しい。死ぬのは怖い。

問題は、それをどう乗り越えるかなのです。

2010年に石飛幸三医師が提唱して以来、

自然な老衰死のあり方とその穏やかな看取りとして「平穏死」の考え方が徐々に浸透してきました。

胃ろうをつけた寝たきりの人も、この6年で60万人から20万人に減りました。

しかし現在でも、無理な延命治療によって穏やかな老衰死が妨げられてしまう実情があります。

それは皮肉にも、家族の「情念」が大きな要因なのです。

多くの人が、「自分の終末期には無理な延命をしないでほしい」と望んでいます。

しかし自分の親が年老い、老衰や病気になると、本人にとって苦しみでしかないと頭ではわかっていながら、

医師の勧めに従い延命措置を受け入れてしまうことも多いのです。

自然の摂理としての死が、家族にとって「悲劇」という受難になってしまうのです。

別離は悲しい。悲しんでいいのです。悩み、迷うことは当然です。

でも「命より大切なものはない」という考えにとらわれてしまうと、当人の尊厳が失われてしまいます。

延命治療を決断した家族自身も、また苦しんでいるのです。

本書では、親や配偶者の死と向き合う家族の声に耳を傾け続けてきた石飛医師が、

悩み苦しむ家族に向けて、大切な人を幸せに見送る心の持ちようや看取り方を提示します。


がんという病と生きる 森田療法による不安からの回復がんという病と生きる 森田療法による不安からの回復 2016/7/12

「がん」にまつわる不安や苦悩にどう対処すべきか。

日本を代表する精神療法である森田療法に基づき、

がん患者のための集団精神療法に長年にわたり携わってきた著者たちが、

豊富な具体例とともに、がんによる心の苦しみから回復する道筋を提示する。

 

 

 


死すべき定め――死にゆく人に何ができるか死すべき定め――死にゆく人に何ができるか  2016/6/25

「豊かに死ぬ」ために必要なことを、私たちはこんなにも知らない
今日、医学は人類史上かつてないほど人の命を救えるようになった。しかし同時に、
寿命が大きく延びたことにより、人はがんなどの重篤な病いと闘う機会が増えた。
老人ホームやホスピスなど家族以外の人々も終末期に関わるようになり、
死との向き合い方そのものが変わってしまったのである。
この「新しい終末期」において、医師やまわりの人々は死にゆく人に何ができるのだろうか?
圧倒的な取材力と構成力で読む者を引き込んでゆく、迫真の人間ドラマ。
現役外科医にして「ニューヨーカー」誌のライターでもある著者ガワンデが、
圧倒的な取材力と構成力で読む者を引き込んでゆく医療ノンフィクション。


軽やかに余命を生きる軽やかに余命を生きる 2016/6/2 著者は末期の膵臓がん
逃れられない死に、人はどう向き合えばいいのか――。
進行がんにかかりながらもその現実を受け止め、軽やかに淡々と生きる著者は、自己の執着から離れ、いのちより大切な自分だけの価値を見つけていました。
生と死に向き合うヒントを伝えます。
だれもが死に対して、自分の存在が消えるという恐れを抱きます。
万国共通のこの「いのちの苦」に対して、外国では「いのちのケア」の専門家が医療の現場で患者さんをケアしていますが、一方で、日本は医療技術は世界の最先端ながらも「いのちのケア」の部分がすっぽり抜け落ちています。
医師として僧侶として、患者さんの「いのちの苦」に向き合ってきた著者は、30年以上にわたって「いのちのケア」の専門家の必要性を訴えてきました。
その著者が、2016年10月に進行がんにかかっていることがわかりました。判明した時点で、すでにステージ4bというがんのなかでももっとも進んだ段階、6か月生きていられる確率は50パーセントという状況でした。
にもかかわらず、その後も変わらない日々を送り、招待された講演会も快く応じられています。
本書の制作を始めた当初は、自ら「完成した本は見られないですね」と言っていたのですが治療法が功を奏し、完成まで校正もていねいにしてくださいました。
数百人の患者さんを看取り、つねに生と死について考えてきた著者ならではの深い洞察をやさしくまとめました。
付録として、「いのちのケア」の専門家である「臨床仏教師」を養成している神仁さんとの対談や、著者が「いのちのケアの経典」と位置付ける般若心経の解釈なども掲載。
生と死を考えるヒントになる一冊です。

【私のブログ記事】医師で僧侶で末期膵臓がんの田中さん 

 

同じ著者の本です。↓

いのちの苦しみは消える: 医師で僧侶で末期がんの私いのちの苦しみは消える: 医師で僧侶で末期がんの私 2016/3/16

人を最期に救うのは、医学か宗教か

いままで数々の末期がん患者を看取ってきた、内科医であり、僧侶でもある田中雅博氏は、自身も末期がんになり、余命数か月と自覚しています。その彼が「いのちの苦しみ」との向き合い方を説く本書は、長年ひとの死を間近で見てきたこと、そしていま「自分の番」が来たことについての実感が深く込められているため、とても重く響いてきます。

医学の限界を知った彼は、宗教こそが人が死と向きあったときに救いになると語ります。宗教というのは仏教やキリスト教だけでなく、自分のいのちより大切なものを見つけたとき、それがその人自身の宗教になるのです。

「命がなくなることに対する苦しみと直面する、その『いのちの苦』から救われるには、『自分への執着』を捨て、どんな人生であったとしても、そこに価値があったと考えて『自分の人生の物語』を完結させるしかない」と、田中氏は言います。人間であれば誰しも逃れることのできない生と死の見つめ方の本質を教えてくれる一冊です。

【私のブログ記事】今日の一冊(42)『いのちの苦しみは消える』


死を迎える心構え死を迎える心構え 2016/4/21

1937年生まれである、著者の下にまいこむ講演の演題で、最も希望されるものが、本書のタイトル「死を迎える心構え」である。老人ならずとも、「死」は常に心の中にある問題であり、また、どんなに年を取った老人であっても、経験として語れない現象である。この世に生きている人が、体験として誰も語れない「死」という事実。この問題を、人間は、古来から考え続けてきた。本書では、哲学者として、生命倫理学者として、現在も旺盛な活躍を続ける著者が、古今東西の知見を集約し、「死について確実に語りうること」を、わかりやすく説き明かす。現代人の心に、「死についての哲学」をもたらす、最先端の知が満載された論考。


がんは人生を二度生きられるがんは人生を二度生きられる 2016/4/29

大腸・乳がん90%、胃がん70%、がん全体65%--5年生存率はここまで上がっている。鳥越俊太郎さんのように何度も手術し完治する人も、「ステージIV・余命2ヶ月」から数年生きる人も珍しくない。しかし「がん告知=死の宣告」というイメージはまだまだ強く、殆どの人はパニックに陥ってしまう。近藤理論を信じこみ完治のチャンスを逃す人が後を絶たない中、「極論に走らない、患者目線の本質論」で信頼される医師が、がん宣告を受けたらまず何を知り、どう考えれば正しい選択ができるかをわかりやすく語った、2時間で読める本。


あの世へ逝く力あの世へ逝く力

死にも技術が必要です。

終わりが近づくほど、人生は楽しくなる。

余命2年半の著者が知った「終活」よりも大切な死の真実。

死は誰にも訪れるものです。しかし、人は「どう生きるか」は考えますが、「死」ついては考えを遠ざけます。

実際に死に直面すると人は、不安や恐怖から将来を悲観し身動きが取れなくなります。

生きているうちに、葬儀、お墓の用意、身の回りの品の整理……その他もろもろのことを思案するのは大切なことですが、死の宣告を受けたものが最初にするべきなのは、死に対する覚悟をつくることなのです。

第1章 「命の終わり」と向き合う11日間

第2章 最後の日々を整える

第3章 死は怖いものではない

第4章 逝くための準備

 

【私のブログ記事】今日の一冊(49)『あの世へ逝く力』


死ぬ力 (講談社現代新書)死ぬ力 (講談社現代新書)

「余生」などいらない!

長生きが簡単な時代だから、いい死に方を真剣に考える

長寿社会にあって、人生の円熟期を私たちはどのように生きていけばよいのか。何を考えながら、余生を過ごせばよいのか。

著者は、何が長寿社会を生み出したか、長寿社会は果たして幸福かを分析したうえで、自然に生きること、仕事は年老いてもずっと続けること、書く人間になること、つねに締め切りを設定して生きてゆくこと、がんばらないこと……など様々な提言をしてゆく。

だらだら長生きしているだけでは、年老いるごとに生きる力が失われ、自分で自由に死ぬ力も失ってしまう。

気づけば「老害」のように社会からお荷物扱いされる。では、死ぬ力=生きる力、つまり人間力を保ちながら年老いるにはどうするべきか。

自身の「人間学」の総まとめにすると決めた70代の著者が、読みやすく、そして滋味深く、より幸福な定年後の生き方を指南する。


悔いのない人生 死に方から生き方を学ぶ「死生学」 (SB新書)悔いのない人生 死に方から生き方を学ぶ「死生学」 (SB新書)
死は誰もが逃れられない。しかし、長寿社会で生きる現代人は死を遠ざけ、希薄化し、死に対して不感症になりつつある。古典からの叡智をひもときつつ、死を意識し、考えることは、すなわちより“よく”生きる方法を見つけることにつながる。日本人が向き合ってきた生老病死―。先達たちの姿勢を見れば、現代に生きる私たちも居ずまいを正さずにはいられないはずだ。

 

 


死はこわくない死はこわくない

「死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験だから、いい夢を見ようという気持ちで人間は自然に死んでいくことができるんじゃないか」。

自殺、安楽死、脳死、臨死体験研究…。長きにわたり、人の「死」とは何かをいうテーマを追い続けてきた「知の巨人」、75歳。がん、心臓手術を乗り越え、到達した心境とは?

 

 


キュア cureキュア cure
若き外科医の斐川竜介は、肝臓ガンで余命1年であることを知る。リストカットの少女・キョウコに支えられながら、自らの運命に立ち向かう。医療現場で病とたたかってきた斐川だが、科学にどっぷりつかりながらも、スピリチュアルのカリスマ、最新ガン治療を受ける青年実業家、放射線生物学者との出会いを通して自分の治療を模索する。 

 

【私のブログ記事】田口ランディ 『キュア』

他人の意識に同調したり、波動を感じてエネルギーを注入することで他人の体内の「情報処理」回路を整理して病気を治したりする特殊な能力を持ち、「神の手」と呼ばれる辣腕の青年外科医、斐川竜介。しかし彼自身が末期の肝臓がんになり「医師」から「患者」の立場になる。

東大病院らしき病院の相談室。冒頭にCS2期のすい臓ガン患者川村達男が登場する。斐川や上司の井沢医師は手術を勧めるが、「この病院が好きではないのです」と言って、川村は手術を拒否してさっさと帰ってしまう。

 

自身も癌患者となった特殊な能力を備えた斐川竜介が、ヒトの「命と意識」を救うために彼の考えたキュア(治療)で多くの患者を救っていくが、彼の特殊な能力は彼自身には適用することができない。「神の手」を持つ外科医でも自分の体を手術することはできないのと同じように。


「死ぬのが怖い」とはどういうことか「死ぬのが怖い」とはどういうことか
「死ぬのが怖い」ことをちゃんと考えれば、「生きること」を再発見できるはず!無宗教の日本人のために「死の恐怖」をはじめて真剣に論じた、全国民の必読書。

 

【私のブログ記事】死ぬのが怖いのはなぜか?

哲学者は演繹的に考えるが、科学者は帰納的に考える。前野氏は「死が怖いのはなぜか」を帰納的に説明しようと試みています。そして「死のシステムデザイン・マネジメント学」から、死ぬのが怖くなくなる方法を山登りに例え、頂上にいたる7つの推奨ルートがあると説明するのです。

  1. 心は幻想だと理解する道(脳科学の道)
  2. すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
  3. 自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
  4. 主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考に道9
  5. 自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
  6. 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
  7. リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思考の道)

前野さんは、死ぬのは「いや」だけれど、「怖く」はないという。哲学から脳科学までを動員して、帰納的に考えを展開する。本書の前半は帰納法と演繹法について「死」を考える。「死」を恐れないためには生は”クオリア” がつくりだした”幻想”であることを理解すれば良い。赤いリンゴを見て、真っ赤なリンゴの酸っぱさを生き生きと感じるのがクオリアである。物理学的には波 長が700ナノメートルの電磁波(光)が目を通じて脳に刺激を与えたとき私たちは「赤い」と認識する。この認識=感じがクオリアである。

有機物の集合である人間のからだ、その中でも高度に発達した脳が、外界からのさまざまな刺激に対応してつくりだしたクオリアの集合が「生」である。従って「生」は幻想である。観念論的な不可知論とは少し違う。外界の存在を否定するのではないが、外界=世界のありようと、私たちが感じている世界とは違うということだ。「生」が幻想なら「死」も幻想である。「私の死」は想像上の産物であって、死の瞬間は当人には認識できない。認識してもその人自身が存在しなくなるのだから、「認識」自体が無意味である。そして過去も未来も「心」という幻想がつくりだしたものだから、本来人間には過去も未来もない。あるのは「ただ今」の瞬間だけ。だから「今」を生きるのが前野さんは「楽しくてしかたがない」という。

と、このようなことをしつこく繰り返して帰納的論理を展開する。

ひと言でいえば、「死」について私と前野さんはほぼ同じ地平に立っている。


明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい

命よりも大切なものがある。

あなたの品性ある人生こそ、大切な人への贈り物なのです。

メスも薬も使わず、3000人以上のがん患者と家族に生きる希望を与えた「がん哲学外来」創始者の心揺さぶる言葉の処方箋。

がんになると、多くの人が自らの「死」を意識し始めます。そしてそのうちの約3割の方がうつ的な症状を呈します。がんになったことで生きる希望を失ったり、生きる意味が見出せなくなったりし、うつ的な状態に陥ってしまうのです。

うつ的な症状を解消するには、患者さんの思考そのものを前向きなものに変えてあげる必要があります。そのきっかけとなるのが言葉の処方箋であり、人間の根源に触れる問いかけです。

生きていれば、嫌なことやつらいことや困ったことの一つや二つはあるでしょうし、病気にはなっていなくてもそれよりも大変な出来事に直面することだってあるでしょう。

そのようなとき、本書で紹介している言葉の処方箋を思い出してください。生きるとは何か。自分の使命とは何か。言葉の処方箋を持てるとその言葉を軸に物事が考えられるようになるのです。


生と死をめぐる断想生と死をめぐる断想
人はどこから来てどこへ行くのか?治療や瞑想の経験、仏教・神道・心理学を渉猟し時間と存在について辿り着いた境地とは?がん体験から十余年。日本と自然の風土の中で、生老病死について考えたことを、平明に深く綴った書き下ろし作品。

 

読み応えがあります。 がん治療や瞑想の経験、仏教・神道・心理学を渉猟し時間と存在について辿り着いた境地とは?


死を考える100冊の本死を考える100冊の本

いかに生き、いかに死ぬか――死生観を養う上で参考になる世界の名著を100冊厳選。

名言と内容について触れられています。

『死の瞬間』(E・キューブラー・ロス)、『人間臨終図鑑』(山田風太郎)、『チベットの死者の書』、『葉隠』(山本常朝)『戦艦大和ノ最期』(吉田満)など、様々な書籍に記されたエッセンスが凝集された究極の一冊。

 


「科学にすがるな!」――宇宙と死をめぐる特別授業「科学にすがるな!」――宇宙と死をめぐる特別授業

「物理では人間はわからない、死とは何かの答えを宇宙に求めるな、死の意味を自分に問うな」と、科学論に基づいて答える宇宙物理学者に、「それでも死をどう考えるかを聞きたい」と食い下がり、質問し続ける素人女性。3.11をはさんだ厳しい激闘の先に見えるものとは? この1年間の物語を読み終えたとき、あなたの何かが変わる。


【私のブログ記事】「死」は科学で解明できるか?

 数年前、立て続けに二人の友人をがんで亡くし、さらにもうひとりの友人が乳がんになり、仕事仲間の12歳の子どもが小児癌で亡くなったというひとりの女性が、死は科学で解明できるのだろうかという疑問を持った。そこで彼女はひとりの理論物理学者、佐藤文隆氏に手紙を書いた。

 

宇宙の誕生や進化について研究を進められ、なおかつ人間の存在について深い洞察をお持ちの佐藤先生は、人間の生と死をどのような実感を持って感じておられるのだろう。「死と生の意味」についてどんなお考えをおもちだろう。ぜひそのお考えをうかがいたいのです。

 

しかし彼女の期待は、初対面から打ち砕かれる。科学に「死」の答えを見つけようとするな、と諭されるんだ。

佐藤氏は実在には3つあるという。第一は「外界」。目の前にあるコーヒーカップなどであり、第二は「内界」、カップからの光が目にはいり、それが電気信号になって脳に伝わってカップだと認識する。これも実在である。第三の実在とは、人間が社会的に受け継いできたもの、言語・慣習・文学も科学も宗教も再三の実在であるという。この第三の実在は、新しい科学的知見によって変化していく。

脳死判定が話題になるように、確かに「死」は社会的な問題ですね。生物学的には細胞も日々死んで交代しているし、肉体的に死んでも分子や原子として環境に戻るだけです。

「私」が死んだあとの「永遠の時間」において「私」は存在しなくなることが怖いのかもしれない。これについて佐藤氏はは、「時間」にもいくつもの「時間」があり、社会的な時間があるのだという。ビッグバンの前には時間も空間もなかったのだから、「永遠の時間」という考え方も錯覚です。そして偶然に、生命のできやすい環境を持った地球ができて、偶然に人間に進化した。進化の過程で人間は「けなげ」に生きてきたのです。論語に「鬼神を敬して、これを遠ざく」があるが、「死」は鬼神なんです。「死」を語るなんて無意味です。これが佐藤氏の考え方。


死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド

アンデルセンから村上春樹まで―。「死」に関する本をさまざまな角度から紹介するブックガイド。「死のおそれ」、「死別の悲しみ」が消えていく50冊。

冠婚葬祭大手(株)サンレー代表取締役社長を務めながら、作家として、また無類の読者家として有名な著者が送るガイドブック。

読書という行為には、【グリーフケア=死別の悲しみを癒す】機能があります。

長い人類の歴史の中で、死ななかった人間はいませんし、愛する人を亡くした人間も無数にいます。その歴然とした事実を教えてくれる本、「死」があるから「生」があるという真理に気づかせてくれる本を集めました。


この世に命を授かりもうして (幻冬舎ルネッサンス新書 さ-5-1)この世に命を授かりもうして (幻冬舎ルネッサンス新書 さ-5-1)
考え方ひとつで、「死」も「苦」も、「楽」になる。千日回峰行を二度満行後も、国内外各地を歩き続けた酒井大阿闍梨が語る、足の裏で地面を踏みしめて「歩く」ことの大切さ。通りすぎてしまう大事な「縁」を結ぶための実践力。誰もが何かの役割を持って授かった「命」の尊さ―。「稀代の行者」が自らの命と向き合って体得した人生の知恵を、生前最後のインタビューで語り尽くした。

 

【私のブログ記事】ガンさん、死ぬときは一緒に死にましょう

がんとつきあうには、「焦らない、迷わない、あきらめない」がだいじなことだ。抗がん剤も手術も拒否して放置することを薦める医者もいるが、がんが見つかってもっと生きていたいと思うのだったら悩むことはないんだよ。自分の心と体に聞いてみれば良い。やるかやらないか、イエスかノーか。自分の「気持ち」を決めてしまえば良いんだよ。まれには「がんもどき」もあるさ。でもね、自分のがんが本物か「がんもどき」かなんて、あとにならなきゃ分からないだろう。あとになっても分からないけど。だったら、決めればいいんだよ。自分の責任で。

いつまでも「生」に執着することも見苦しいよね。希望と努力は大事だよ。でもね、いずれ人間にはどうにもできないことがあるんだと受け入れなければ。でなければ、いつのまにか「希望」が「執着」になってしまう。執着は煩悩だよ。

頭の中に余計な知識が一杯つまって、ウワーと渦巻いているから煩悩が生じるんだよ。治療の知識を集めるのは大事だよ。免疫療法だろうが代替医療だろうが、知識は集めた方が良い。しかし、集めた知識をいったん捨てることも肝心だね。そして自分に聞いてみる。どんな人生を送りたいのか、残された時間をどのように過ごすのが幸福かとね。頭の中に少しは「空き」がないとね。老子も言ってるよ。器は中が空っぽだから器としての役にたつのだと。部屋をいろいろな家具でいっぱいにしたら部屋としての役を果たせなくなる。頭の中の知識だって同じさ。そりゃ少しはがんの知識も要るけどね。頭の中をがんの知識でいっぱいにしてどうするの。

    行き道は いずこの里の 土まんじゅう

いつどこで死ぬかなんて、誰にも分かりはしないのだから、そんなことで悩まないで、歩くこと。歩くことは生きること。


大往生 (岩波新書)大往生 (岩波新書)
人はみな必ず死ぬ.死なないわけにはいかない.それなら,人間らしい死を迎えるために,深刻ぶらずに,もっと気楽に「老い」「病い」,そして「死」を語りあおう.本書は,全国津々浦々を旅するなかで聞いた,心にしみる庶民のホンネや寸言をちりばめつつ,自在に書き綴られた人生の知恵.死への確かなまなざしが,生の尊さを照らし出す.

 

 


新・がん50人の勇気 (文春文庫)新・がん50人の勇気 (文春文庫)
刻一刻と迫り来る死を前に、人はいかに生きるか。永遠の命題への答を求めて、著者は作家・俳優・音楽家・学者・僧侶・企業人など、五十余名の「生と死」のかたちと向き合う。最期の瞬間まで生を全うした人々の胸を打つ感動のドキュメント。

 

 

 


私はがんで死にたい―ホスピス医が決めている最期私はがんで死にたい―ホスピス医が決めている最期
「がん死」は苦しむイメージからか,多くの人に嫌われています。しかし,3人に1人ががんで亡くなる現代,「がん死」を正面から見つめなおす時代がきています。元消化器外科医・現ホスピス医の著者は,2,500人以上の末期がん患者と接してきた経験から,「がん死」こそ人間に相応しい死に方だと説きます。そのうえで,がんでも穏やかな最期を迎えるためにすべきことを解説しました。著者が進めている死への準備,愛妻の最期なども吐露,現代の死に方・終末期医療のあり方を考えさせる一冊です。


死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)
死とは、長い過程であって特定の瞬間ではない―人生の最終段階と、それにともなう不安・恐怖・希望…二百人への直接面接取材で得た“死に至る”人間の心の動きを研究した画期的な書。 

 

 


「死ぬ瞬間」と死後の生 (中公文庫)「死ぬ瞬間」と死後の生 (中公文庫)

「死ぬ瞬間」と死後の生

 著者はホスピスを世界に広めた精神科医で、臨死体験を綴った『死ぬ瞬間』などの著書でも知られる。彼女はどうしたら苦しみを乗り越えられるか、死を恐れずに受け入れられるかをテーマに、各国で講演している。本書はそれら講演の内容をまとめたもので、彼女の語りが笑い声まで再現されていて思わず引き込まれる。

 「人間は直感で正しい道が分かるものだ。それに従うと困難な道を行くことになる。だがその苦しみを耐え抜くと多くを学ぶことができる」という彼女のメッセージは、より良い死はより良く生きることによってもたらされると教えられる。様々な困難にさらされる現代人にとって、人生を100%生きるのが難しい時代だ。それだけに彼女の一言一言には重みがある。


日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)
仏教の本質は、すなわち修行である。それは、自己改良による「苦」の消滅。あらゆる苦を生み出すものが「この私」であるなら、心を鍛え、私自身を変えることで、苦しみから自由になれるはずだ。現代に生きる私たちにとって、ひたすら信じる救済の宗教よりも、釈迦本来の合理的な教えの方が、むしろ馴染みやすい。そこに「生き死に」の拠りどころがある。本書では、初期仏教の思想をベースに、生活に結びつく叡智を一〇〇話で紹介。仏教は、それを必要とする人を静かに待っています。


夜と霧 新版夜と霧 新版
著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。「生きることからなにを期待するかではなく、……生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題」というような忘れがたい一節が、新しくみずみずしい日本語となって、随所に光をおびている。本書の読後感は一手記のそれではなく、すぐれた文学や哲学書のものであろう。

【私のブログ記事】人生から期待されている


新版 死とどう向き合うか新版 死とどう向き合うか
死を見つめることは、生き方を問うこと。限りある人生をいかに充実した時間にするのか、死生学のデーケン氏が語る珠玉のメッセージ。 

デーケン,アルフォンス

1932年ドイツ生まれ。カトリック司祭。アメリカのニューヨーク・フォーダム大学大学院で哲学博士号(Ph.D.)を取得。59年来日し、上智大学で30年にわたり「死の哲学」などを開講。03年退官。現在は上智大学名誉教授。「東京・生と死を考える会」名誉会長。

古典的な名著の新版。死を考える上では必読書。


われわれはなぜ死ぬのか―死の生命科学われわれはなぜ死ぬのか―死の生命科学

生命の歴史についてはよく語られてきたが、死の歴史についてはこれまでほとんど語られてこなかった。生き残りをかけた生命の進化は、同時に死の機構をも進化させてきたのだ―。なぜ老化がおこるのか、死は生命にとってどのような役割を果たすのか?死の本質に迫る。

 

受精の瞬間から遺伝子は死に向けて時を刻み始める。生命が誕生から36億年かけて築き上げた死の機構とはどういったものか。なぜ生物には死がプログラムされているのか。生命科学者が死とは何かを問う。

【私のブログ記事】がん患者が考える生と死(1)「生きて死ぬ智慧」

あるとき、神秘体験をする。一冊の本『人間の生きがいとは何か』(橋本凝胤)を夜が白々と明けるころまで読んでいたときのこと、

白く浮かび上がった障子を眺めていた私は、突然明るい炎に包まれた。

熱くはなかった。ぐるぐると渦巻いて、一瞬意識がなくなった。

気がついてみると、それまでの惨めな気持ちは打ち払われ、目の前に光り輝く一本の道が見える。

私は何か大きなものにふわりと柔らかく抱きかかえられるのを感じた。その道はどこへ行くのかわからなかったが、それを進めばよいことだけははっきりわかった。

「そうだ。生きるのだ。仕事をしなくたってきっと生きられる」

生命科学者である彼女は、しかし、「一般に、動物が強いストレスにさらされたときに、脳内快感物質が出るということは十分に考えられることである。たくさんの快感物質が出たときに、・・・・感覚が生じても不思議ではない。神経の過度の緊張は、火となって感じられる可能性がある。したがって、神秘体験は、神秘ではなく、科学で十分に説明のつく現象であろうと私は考える。」と冷静である。

しかし、そうした彼女も「癒しようもないほどに病んだ肉体とは裏腹に、今を必死に生きようとしている私のいのちの感触を、こころの奥に探り当てる。もはや滅び去る身とされた者が、救いを希求するこころの形見のような信仰への激しい渇望を、そこに実感する。」と書いて、信仰を求めていく。ただ、「手近にある教団や教祖にすがりつくような宗教のかたちには満足できなかった」彼女が行き着いたのが「般若心経」の「空」の考え方でした。


生きて死ぬ智慧生きて死ぬ智慧

「いのちの意味」をわかってください。般若心経の科学的「心訳」!当代きっての生命科学者が、かくも美しく明晰な現代日本語に。生命の根源に宿る美と崇高を描く巨匠との感動コラボレーション。 

 

 

ひとはなぜ苦しむのでしょう・・・・

ほんとうは

野の花のように

わたしたちも生きられるのです

**************

お聞きなさい

私たちは  広大な宇宙のなかに

存在します

宇宙では

形という固定したものはありません

実体がないのです

宇宙は粒子に満ちています

粒子は自由に動き回って  形を変えて

おたがいの関係の

安定したところで静止します

**************

お聞きなさい

あなたも 宇宙のなかで

粒子でできています

宇宙のなかの

ほかの粒子と一つづきです

ですから宇宙も「空」です

あなたという実体はないのです

あなたと宇宙は一つです


【私のブログ記事】がん患者が考える生と死(1)「生きて死ぬ智慧」


死と不安を乗り越える: 「医活」納得のいく医療との出会い方死と不安を乗り越える: 「医活」納得のいく医療との出会い方
自分や家族の病、死は誰もが怖いが、突き詰めて考えることでしか、不安は乗り越えられない。一〇〇〇人以上の死を見届けたホスピス医が、医療と死にまつわる疑問に答える。

 

 

 


それでも人生にイエスと言うそれでも人生にイエスと言う
『夜と霧』の著者として、また実存分析を創始した精神医学者として知られるフランクル。第二次大戦中、ナチス強制収容所の地獄に等しい体験をした彼は、その後、人間の実存を見つめ、精神の尊厳を重視した独自の思想を展開した。本講演集は、平易な言葉でその体験と思索を語った万人向けの書であり、苦悩を抱えている人のみならず、ニヒリズムに陥っている現代人すべてにとっての救いの書である。

【私のブログ記事】人生から期待されている

多くのがん患者ががんと共に生きる覚悟はできているのだろう。でもね、それはまだ普通の「覚悟」でしかない。まだ、あなたは人生から何かを得ようとしている。まだ、こんなはずではなかったというわけだ。

ナチスの強制収容所から奇跡的に生還した『夜と霧』の作者フランクルは、「人生が、あなたに期待しているものがある」はずだと言う。生きているかぎりは、人には役割と使命があるはずです。これまでの人生が、人生に期待するばかりだったとしたら、がんになったこれからの人生は「人生から何が期待されているのか」と問うてみては如何でしょうか。家族や世間や他人から何を期待されているのか。他人の苦労や心配事にも想いを馳せてみるということです。

 


からだの知恵に聴く―人間尊重の医療を求めてからだの知恵に聴く―人間尊重の医療を求めて
「病い」を生きることの価値。病いはからだと心の「再生」への好機であるが、医療や社会は患者の「人間らしく病む権利」を奪い去る―病いの深淵へと至る旅、「からだの知恵」との対話、そして患者のからだを「領土」として支配する、医療の非人間性への告発。「病い・ケア・医療論」の未来の古典たりうる、深い洞察と問題提起の書。

傷ついた物語の語り手―身体・病い・倫理』もあわせて読みたい。

 


「死の医学」への序章 (新潮文庫)「死の医学」への序章 (新潮文庫)
〈死〉をタブーの世界の中に閉じこめておくべきではない。〈死〉を見つめることによって、より深い〈生〉の充足を得ることができるのである。―2年7カ月にわたるガンとの闘いの中で、自ら「死の医学」を実践して逝った精神科医・西川喜作。その雄々しくも苛烈な生の軌跡をたどりながら、末期患者に対する医療のあり方を考える。高齢化社会における医療文化への示唆に満ちた提言。

 


「死の医学」への日記 (新潮文庫)「死の医学」への日記 (新潮文庫)
末期に臨んで、人は自らの人生を完成させるべく、どのような死を創るべきなのか?また、死にゆく人を医療はどう支援すべきなのか?終末期医療のあり方が問われる現在、現代医療は根源的な転換を迫られている。緩和ケア、インフォームド・コンセント、在宅ホスピス、尊厳死…。医療者と患者・家族が直面した身近な「生と死の物語」から、「死の医学」を探り当てた感動的なドキュメント。

 


科学するブッダ犀の角たち (角川ソフィア文庫)科学するブッダ犀の角たち (角川ソフィア文庫)
科学と仏教。このまったく無関係に見える二つの人間活動には、驚くべき共通性がある。生命や宇宙の解明を目指し、発展してきた科学。それは古来、賢人たちが抱いていた天動説のような「神なる視点」との決別の歴史だった。一方の仏教も、神秘的な絶対者の力を否定し、人間の存在だけをよりどころに世界観を組み上げようと生まれた宗教である。両者が向かう先を徹底した論理で探求。知られざる関係性を明らかにする知的冒険の書。

【私のブログ記事】「心と癌と量子力学の関係(2)


どうせ、あちらへは手ぶらで行く (新潮文庫)どうせ、あちらへは手ぶらで行く (新潮文庫)
「五月十六日 『楽しく楽に』を最優先。不快、厄介、後廻し。楽々鈍で、どんどん楽」──作家が手帳に記していた晩年の日録には、自身の老いを自覚し、見つめながら、限られた人生を最期まで豊かにしようとする姿があった。執筆への意気込み、友との交遊の楽しさ、家族への愛情、そして妻を亡くした悲しみなど、作家が世を去る三ヶ月前まで、九年間にわたって綴っていた感動の記録。

【私のブログ記事】「城山三郎 『そうか、もう君はいないのか』

癌を告知され、余命を告げられて時、「残された時間を有意義に過ごす」などと、書いてある本をよく見かけるが、有意義な時間の過ごし方なんていうものは、われわれ凡人にはどう過ごしていいのか、はたと迷ってしまう。偏凡な日常を平凡に生きることでいいのじゃないだろうか。これまでよりは少しは物事をよく見て、ほんの少しよく考えて、食事や家族との時間を、これが大事な時間なんだとちょっと意識的に感じ取って過ごす。そんなことしかできそうにないし、それでいいのだと思う。やりたいことを精一杯にやる。死に対峙する妙案は、案外そんなところにあるはずだ。


ヒトはどうして老いるのか―老化・寿命の科学 (ちくま新書)ヒトはどうして老いるのか―老化・寿命の科学 (ちくま新書)
ヒトはなぜ老いて死んでいくのか。本書はこのメカニズムを生物学の最新の知見を用いて明らかにしたものだ。

細胞研究の第一人者である著者によれば、細胞内に死を支配する遺伝子が生まれながらに宿っており、ヒトは必ず老い死ぬようにプログラムされている。さらに、この仕組みこそが、人類の進化と多様性を担保していると説明する。もし、不老不死の仕組みを獲得していれば、環境変化に耐えられず絶滅していたというわけだ。

また、「老い」は、ほかの生物とは違い、人類にとっては贈り物でもあると著者は言う。老いることで体力や記憶力は衰えるが、一方で本質を見るなどの知能は向上する。老いの知性を生かして、残された人生を積極的に楽しむことが大切だと著者は主張する。

【私のブログ記事】「がん患者が考える生と死(2)


遺伝子の夢―死の意味を問う生物学 (NHKブックス)遺伝子の夢―死の意味を問う生物学 (NHKブックス)
本書は、細胞死の研究をもとに、細胞の死、そして個体の死とは一体何であるのかを遺伝子の側から観ることによって「死のある意味」を理解し、「生きていることとは何か」を自然のなかに問うものである。

 

【私のブログ記事】「がん患者が考える生と死(2)「死」は「生」の更新のためにある

細胞の生成と死、この不断の流転の中にこそ、個体としての生が保証されているのである。

有性生殖をおこなう多細胞生物が存続するには、生殖相手を含むその種が存続していかねばならず、環境が変化しても生きのびるためには遺伝子の構成を変えて、新しい環境に適用するしかない。従って多くのバリエーションをもった遺伝子をあらかじめ作っておき、新しい環境に適用できる個体が生きのびるようにするのである。(ダーウィンの進化論)

このとき、古い遺伝子をもった個体がいつまでも活きていては都合が悪いのである。新しい環境に適応できる遺伝子と、古い遺伝子が有性生殖によって混じっては困るのである。したがって、生物の個体が永遠の命をもつことは、その種が生きのびる上では誠に都合が悪いということになる。だから生物には寿命があり、いつかは死ななければならないことになったのだろう。

 

二重の細胞死、アポトーシスとアポビオーシスは、多細胞生物が進化の過程で獲得した「生」のための戦略であり、死によって生を更新することがもっとも合理的な”種としての”生の手段なのである。つまり、「死」は自分以外の「生」のために存在しているのである。ヒトは「死」という究極において、他人のために生きることを運命づけられているのである。 


死の起源 遺伝子からの問いかけ (朝日選書)死の起源 遺伝子からの問いかけ (朝日選書)
なぜ、私たちは死ぬのか? 生物はみな死から逃れられないのか? 最新の遺伝子研究の成果を踏まえて、有性生殖をする生物は必ず死ぬという理論を分かりやすく説きあかす。

 

 

 

 


死を見つめる心 (講談社文庫)死を見つめる心 (講談社文庫)
「死」とは何か、を考えるための古典と言ってもよい。

人間が死というものに直面したとき、どんなに心身がたぎり立ち、猛り狂うものか──すさまじいガンとの格闘、そしてその克服と昇華……言語を絶する生命飢餓状態に身をおいた一宗教学者が死を語りつつしかも、生きることの尊さを教える英知と勇気の稀有な生死観。

宗教学者であり、アメリカで黒色腫(メラノーマ)を宣告されて余命6ヶ月と言われた岸本英夫氏は『死を見つめる心 』で、その状態を「生命飢餓状態」と表現する。死後の世界も極楽浄土の信じていない合理的精神の持ち主だと、自分でもはっきりと言う宗教学者である。その岸本氏は、「死」という別の実体があって、これが生命に置き換わるのでない。ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことが死だと考える。「闇」というものは存在しない。光がなくなった状態が「闇」である。我々人間は、無いもの=「無」を認識することはできないのだと。だとすれば、今与えられている「いのち」を精一杯生きること、死が近づいても一日々々の重要性には変わりがないはずだと思う。

【私のブログ記事】「未熟の晩鐘


「死」を哲学する (双書 哲学塾)「死」を哲学する (双書 哲学塾)
少々読み応えのある本ですが・・・。

 

人はどうして死ぬことを恐れるのか?がんの告知を受けたらだれでも「死」が頭をよぎる。がんが治る病気になったとはいえ、やはり「がん=死」という受け止め方が普通だと思う。膵臓がん患者なら「治る」ことは希なできごとであるから、一層「死」について考える。

「死」を哲学する (双書 哲学塾) 哲学者の中島義道氏は『「死」を哲学する (双書 哲学塾)』で、

    私の場合、死に対する恐怖とは、一瞬間だけ存在して、また永遠に無になる、という途方もなく残酷な「あり方」に対する虚しさです。

と書いています。そして、

    死への恐れとは、言葉が生み出した影に過ぎない。われわれが死を恐れているとしても、じつは「死」という言葉を恐れているだけだということ、このことをからだの底から実感するときー死を文字通り克服することができるかどうかわかりませんがー、目くるめくような新しい世界が開けること、それはわれわれを「自由にする」こと

だと結論づけるのですが、それを7回の講義形式で考えていきます。

 

【私のブログ記事】死ぬのが怖いのはなぜか?